読売ジャイアンツ永久欠番列伝
今回は読売ジャイアンツの永久欠番の選手を背番号順に紹介していきます!
背番号1
まず紹介するのが、世界のホームラン王こと王貞治選手です!
もはや説明不要でしょう。
通算本塁打世界記録の868本塁打のみならず、日本記録の2170打点やセリーグ最多記録の2786安打を残しており、日本歴代最強バッターとして黄金期のジャイアンツを支えました。
その偉大さはバッティングだけでなく、シーズン守備機会1607回や連続無失策記録でセリーグ記録を保持しており、1972年に制定されたダイヤモンドグラブ賞には引退するまで毎年選出されていました。
そんな王さんですが、ジャイアンツの監督としての評価は微妙で、あまり周囲のアドバイスに耳を傾けない頑固者だったそうです。
その後、ホークスで監督になった際にはジャイアンツ時代の反省を生かし、14シーズンにわたって指揮を取りつづけました。
ちなみに。現在当たり前になってきた国民栄誉賞ですが、もともとはホームランの世界記録を達成した王選手を称えるためにできたんですよ!
【通算記録】
試合 2831
打率 .301
安打 2786
本塁打 868
打点 2170
===(監督時代)===
試合 2507
勝利 1315
敗戦 1118
勝率 .540
優勝 4回
Aクラス15回
Bクラス4回
【タイトル】
首位打者 12回
本塁打王 15回
打点王 13回
最多安打 3回
MVP 9回
B9 18回
【日本記録】
通算本塁打 868
通算打点 2170
通算塁打 5862
通算得点 1967
通算四球 2390
通算敬遠 427
通算出塁率 .446
通算長打率 .634
通算OPS .1080
シーズン四球 158
シーズン敬遠 45
シーズン出塁率 .532
シーズンOPS 1.293
続いての永久欠番は
背番号3
この番号を背負っていたのは『ミスタープロ野球』こと
長嶋茂雄選手です!
記録よりも記憶。と言われる長嶋選手ですが、記録の方も実績十分!
立教大学からジャイアンツに入団した長嶋選手はルーキーイヤーから大活躍!
打率.302 ホームラン29本 92打点 盗塁37とあと少しでトリプルスリーという成績を残します。
ここで余談なのですが、9月19日の広島戦でフェンス越えの打球を放ちますが一塁ベースを踏み忘れるという珍事を起こしており、野球ファンの間では”実質トリプルスリー”と語り継がれています。
そんな長嶋選手はバッティングだけでなく、様々な魅力でファンを沸かせました。
守備ではショートやピッチャーの守備範囲まで侵入してゴロをさばいたり、時にはなんでもない打球をトンネルしてしまったりするので、派手だけど危ない。と語られることが多いですが
通算の守備率は.965とかなりの高水準を保っており(セ・リーグ三塁手2位)数字で見ても偉大な選手だったことがわかりますね!
長嶋選手の意外性といえば、よく三振した際の豪快なヘルメットすっぽ抜けが有名ですが、タネを明かすと、ファンが楽しめるようにわざと大きめのサイズにしていたり、実際の数字では通算三振率が.090と400本以上ホームランを打った選手の中では張本勲、土井正博につぐ数字を残していて意外と三振していないんですよ!
通算成績も立派ですが、いつどんな時もファンのことを忘れない。そんな長嶋
選手がミスタープロ野球と呼ばれているのは納得ですね!
【通算記録】
試合 2186
打率 .305
安打 2471
本塁打 444
打点 1522
===(監督時代)===
試合 1982
勝利 1034
敗戦 889
勝率 .538
優勝 5回
Aクラス12回
Bクラス3回
最下位 1回
※ジャイアンツでは史上唯一の最下位
【タイトル】
首位打者 6回
本塁打王 2回
打点王 5回
最多安打 10回
MVP 5回
B9 17回
新人王
続いての永久欠番は
背番号4
この背番号を背をっていたのは黒沢俊夫選手です!
一瞬だれ?ってなりませんでした?
失礼ですが、ジャイアンツの永久欠番史上もっとも一般には知れ渡ってはいないと思います。
その後、大洋・西鉄を経たのちに戦争の徴兵によって選手が枯渇していたジャイアンツに入団します('44)
長打力はないものの確実性の高いバッティングで活躍し、リーグトップクラスの打率.348、17打点を記録します。
足もかなり速く、通算10個、一試合2個のホームスチールを決めたこともありました。
1947年のシーズン途中までクリーンナップの一員として活躍していた黒沢選手でしたが、6月に腸チフスで入院するとそのまま帰らぬ人となってしまいます。
戦後の人員不足の中、病魔と闘いながらプロ野球を支えた黒沢選手には多くの悲しみと敬意があつまり、黒沢選手の背番号4はそのまま永久欠番として認定されました。
【通算記録】
試合 484
打率 .259
安打 459
本塁打 7
打点 201
盗塁 80
続いての永久欠番は
背番号14
この背番号を背をっていたのは悲運の名投手、沢村栄治選手です!
ピッチャー最大級の栄誉『沢村賞』の冠となった伝説の投手です。
史上初の投手5冠やノーヒットノーラン。
ジャイアンツ史上初優勝に導く3連投など話題がてんこ盛りな選手ですが、特にスゴいのが1934年のメジャー選抜に対するピッチングでしょう。
ベーブルースやルーゲーッリクがいるメジャー選抜に対してコテンパンに負けてきた全日本選抜のなか、8回5安打1失点に抑えた好投は今もなお語り継がれています。
あまりにすごいもんだから、カージナルスのスカウトがファンに変装してこっそり契約書にサインを書かせたという逸話まで残っています!
そんな輝かしい野球人生を歩んできた沢村選手ですが、その生涯を語る上で外せない言葉があります。
戦争です。
現役時代から戦争に駆り出されていた沢村選手。
その豪腕を認められ何度も何度も手榴弾を投げさせられた右腕は悲鳴をあげ、現役最終盤にはその豪速球は勢いを失っていました。
それでも工夫を重ねてサイドスロー、アンダースローと試行錯誤してきましたが最後には球団から解雇されてしまいます。
現役引退後、3度目の軍隊生活を送っていたところアメリカの軍艦に撃沈され、その生涯を終えることとなりました。
わずか27歳。あまりにも太く短い人生でした。
【通算記録】
登板 105
先発 86
勝利 63
敗戦 22
奪三振 554
防御率 1.74
【タイトル】
最多勝利 2回
最優秀防御率 1回
最多奪三振 2回
最高勝率 1回
MVP 1回
続いての永久欠番は
背番号16
この背番号を背負っていたのは川上哲治選手!
王選手、長嶋選手を差し置いて打撃の神様と言われており、日本プロ野球で初めて2000本安打を達成した選手です!
バッティングにおいては高い技術を持っており歴代2位の通算打率は.313を記録しています。
ホームランバッターというよりアベレージヒッターに近く、現在も使われる弾丸ライナーは川上選手が名前の由来となっています。
王選手や長嶋選手と大きく違うのが、両選手ともバッティングだけでなく守備でも高い評価を受けていたのですが、川上選手は取れない打球は深追いしないのがセオリーだったらしく、当時の内野陣には少し不評だったそうです。
引退後はジャイアンツの監督として伝説のV9を達成しており、選手だけでなく監督としてもジャイアンツ、日本プロ野球界の神様として君臨しました。
【通算記録】
試合 1979
打率 .313
安打 2351
本塁打 181
打点 1319
===(投手時代)===
登板 39
先発 25
勝利 11
敗戦 9
奪三振 97
防御率 2.67
===(監督時代)===
試合 1866
勝利 1066
敗戦 739
勝率 .591
優勝 11回
Aクラス13回
Bクラス1回
【タイトル】
首位打者 5回
本塁打王 2回
打点王 3回
最後にご紹介するのは
背番号34
この背番号を背負ったのは金田正一選手!
日本プロ野球界ダントツの400勝を達成した大投手です!
ダントツにすごいのは勝利数だけでなく、歴代最多敗(298敗)や史上最年少ノーヒットノーランといった現在では更新不可能と言われる記録を数々設立しているところです。
そんな金田選手ですが、野球人生のほとんどを国鉄(現: スワローズ)で過ごしており、通算400勝のうち353勝を弱小国鉄であげているのも凄まじいところです。
晩年をジャイアンツで過ごしたのちに現役を引退するのですが、セカンドライフも金田選手らしさ全開です。
当時人気のなかったロッテの監督になった際には、太平洋クラブの稲尾監督と密約を交わしてお互いの悪口合戦をマスコミに向け演出し注目を浴びたり、試合中に怒り狂った相手チームの助っ人外国人に蹴りを入れて退場を宣告されたりと激しい自己主張で知られました(通算8回の退場処分は最近まで1位でした)
監督退任後は現役選手の目標でもある名球会を設立したり、今もなおタレント・解説者として球界に対し自己主張の激しいエールを送り続けてくれています。
【通算記録】
登板 944
先発 569
勝利 400
敗戦 298
奪三振 4490
防御率 2.34
===(監督時代)===
試合 1011
勝利 471
敗戦 468
勝率 .502
優勝 1回
Aクラス 4回
Bクラス4回
最下位 1回
【タイトル】
最多勝利 3回
最優秀防御率 3回
最多奪三振 10回
沢村賞 3回
B9 3回
【日本記録】
通算勝利 400
通算奪三振 4490
通算投球回 5526.2
通算完投 365
通算敗戦 298
通算被四球 1808
開幕戦投手 14
6人くらい楽勝でしょ!と考えていましたが、意外と調べるのが大変であやうく右肩を負傷するところでした、、
僕の話は置いといて、、
2019年、プロ野球は史上最多動員の記録達成が目前となってきています。
しかし、ここに至るまでには数多くの選手や職員さんが”野球”というスポーツを伝え続けるため、ファンとともにバトンをつなぎ続けてくれた歴史があります。
たまには過去のプレイヤーを振り返って、感謝の気持ちをもってみてもバチは当たらないんじゃないかなぁ〜
球だけにね!