ドラゴンズの背番号3の歴史
2019年シーズンもまもなく終了ですね。
シーズン終了後はCSや日本シリーズといった Aクラスしか楽しめないイベントが続くので、しばらくBクラスが確定した球団を中心にブログを更新していきたいと思います。
Bクラス球団の新三大・オフの過ごし方といえば『ドラフト!戦力外通告!背番号シャッフル!』と決めつけているので、今回は背番号の歴史を書いていきたいと思います。
背番号3といえば、読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手やタイガースの代打の神様こと八木祐選手が有名ですね!
どこの球団でも、強打が魅力的な内野手がつけている印象が強いのですが、中日ドラゴンズの背番号3はどんな選手がつけていたのでしょうか?
戦争期
戦前のドラゴンズ黎明期を支えた選手たちの登場です!
びっくりしたのが1936年に松浦一義投手がはじめて背番号3になったあと、1年間で3人の選手が背番号3を継承していることですね
初代3番 松浦投手はアメリカ国籍の速球派ピッチャーでしたが、わずか一年で引退。
つづく桜井選手も1試合に登板しただけで、それ以降の出場はありませんでした
倉本信護選手は日本プロ野球初のリーグ戦に阪急の捕手として出場した選手で、その年の秋にドラゴンズへとやってきました
戦前の中日でただひとり、複数年で3番をつけた石田選手は俊足好打の内野手で、1938年にリーグ3位の.324を記録。1940年には盗塁王のタイトルも獲得している名選手です。
戦後期
戦争が終わったあと、石田選手の背番号3を受け継いだのは藤本英雄選手でした。
あれ?藤本ってあの藤本?と思った野球ファンの人もいるんじゃないですか?
そう、その藤本選手です。
通算防御率1.90の日本レコード記録に通算200勝
戦時下のジャイアンツの伝説的投手ですが、1947年の1年間だけドラゴンズに在籍してたんですよ!
その理由が面白くて、お金のなかった当時のジャイアンツが藤本選手と再契約する際に、契約金の5000円をあとで返すから一旦返還してほしいと市岡球団社長が藤本選手にお願いしました。
あとで返してくれるならと球団に5000円貸したはいいものの、シーズン終了後いっこうに返す気配がありません。
そのことに不信感を覚えた藤本選手は、なんとドラゴンズに移籍してしまいました!
今でこそFA選手に何億円も支払える巨人ですが、たった5000円で伝説の大エースを放出しちゃうなんてもったいないですね。言ってくれれば貸したのに。
そんなこんなでやってきた藤本さんは一年で退団。
空いた背番号3は新人の国枝さんへと渡ります。
自慢の快速で初年度から36盗塁を記録するなど、現役通算7年で192個の盗塁をマークした名選手です!
しかし、デッドボールの後遺症がなかなか治らず、中日が初優勝を決めた1954年に現役を引退しています。
その意思を受け継いだ内海選手でしたが、バッティングの非力さもあって2年で17試合にとどまります。
翌年、中日の背番号3の権威をめちゃめちゃ高める名選手が3番を担いました。
のちにドラゴンズの監督も務めた中利夫選手です。
入団当初は56番でしたが、入団2年目に規定打席へ到達。
翌年に背番号が3番へと変更されます(56→35→3)
すると自慢の守備に加え、俊足を活かしたプレーがはまり1967年に首位打者。1960年には盗塁王を獲得するなど、高木守道との黄金の1、2番を結成します。
その後、2年目から引退まで毎年ホームランと盗塁を必ず記録するなど、通算18年にわたりドラゴンズを牽引していくのでした。
円熟期
中選手の引退後、3番をせおったのはまたしてもルーキーの藤波行雄選手でした。
一年目から90試合に出場し、ドラゴンズの20年ぶりの優勝に貢献すると、新人王まで獲得。竜の未来を担う選手として期待されます。
その後も順調にキャリアを重ねていましたが、1977年に事件が起こります
開幕前にライオンズの基満男選手と2対1のトレードをいいわたされたのでした。
しかしこのトレードに藤波選手は断固拒否
トレードされるなら引退してやる!と言い切ったところなんとか移籍は免れたのでした。
そのペナルティとして背番号は40に変更されますが、現役14年間をドラゴンズ一筋で貫く球団愛を示しました。
その藤波選手以降は2人の助っ人が在籍しています。
1977年のデービスはメジャー通算2561安打、138HR、398盗塁の超スーパーメジャーリーガーで球団も大きな期待をしていました。
実際に72試合の出場ながら25本塁打に3割を超える打率を残しますが、球団や選手とのトラブルが相次ぎ、シーズン後に金銭トレードで放出されてしまいます。
つづくギャレッドも3番をつけ1年目には115試合に出場しますが、翌年に成績を下げ退団しています。
助っ人2名の後を継いだのは南海、巨人で活躍した冨田勝選手。
往年の名選手でしたが高齢ということもあり、大きな活躍はできませんでしたが、宇野ヘディング事件の当日にジャイアンツからホームランを打っています。
バラエティー豊かなこの年代の3番史の最後は、いぶし銀の名選手、平野謙選手です。
入団当初はピッチャーでしたが、当時の3番 藤波行雄選手に自慢のストレートを打たれたことを機に野手へと転向します。
すると持ち前の強肩を活かした外野守備が評価され1982年にレギュラーを獲得
当時新記録のシーズン51犠打を記録します。
その後、ライオンズにトレードされると伝説のAK砲へつなぐ2番打者として西武黄金期を牽引し、1996年にロッテで引退しました。
立浪期
さあ、いよいよこの選手の登場です。
中日の背番号3を最も背負った選手で、引退時にはファンが永久欠番を求める署名運動をおこなったほどの名選手です。
入団1年目に当時レギュラーだった宇野勝をコンバートさせるほどのセンスを見せつけ、開幕戦に2番遊撃手として先発出場します。
打率こそ夏に落ち込みますが、110試合に出場し22盗塁21犠打を記録し、リーグ優勝へと貢献。
史上初めての高卒新人でのゴールデングラブ賞を受賞。新人王にも輝きました。
その後の活躍は言わずもがな
打撃タイトルには縁がありませんでしたが、日本記録の487二塁打のバッティングに加え、史上唯一である遊撃手、二塁手、三塁手の3ポジションでゴールデングラブ賞を受賞するなど、走攻守の要としてドラゴンズを支えました。
そんな立浪選手のことをもっと知りたい人は立浪選手が執筆した名著『負けん気』をご覧ください。文芸社から出ています。
21世紀
22年ものあいだ3番をつけていた立浪選手を受け継いだのは吉川大幾選手
立浪選手とおなじPL学園の出身かつ主将であったことから背番号3番を継承します。
守備には定評がありましたが、バッティングに難があり、期待の大きさも相まって2014年に戦力外通告を受けます。
吉川選手退団後、2011年のドラフトで3球団競合した高橋周平選手に3番が継承されます。
吉川選手以上の大きな期待が寄せられていましたが、2016年まで結果が出せず、そこそこの選手で終わってしまうのではないかと不安視されていましたが、2017年に二塁手として開花します。
128試合に出場し、初の3桁となる110安打を記録、ホームランも11本放つ活躍を見せます。
翌年の2019年には守備位置も三塁に戻し、さらなる活躍を期待されチームキャプテンに任命されます。
すると5月に8度の猛打賞を記録するなどの活躍を見せ、初の月間MVPとオールスター出場を決めます。
安定した守備と3割付近のバッティングをマークしており、中日ドラゴンズの背番号3に恥じない活躍を、いや、新たなる歴史を刻み続けています。
いかがだったでしょうか?
ほかの球団では、強打の内野手に成長した選手に3番をわたすのが主流ですが、ドラゴンズの場合は俊足巧打の選手。さらにルーキーにいきなり渡してしまうパターンが多かったですね!
80年の歴史で合計16名の選手がつけた中日ドラゴンズの背番号3を次に受け継ぐのはどの選手なのか?それともこれまでのように期待の新人に託すのか。
ドラゴンズの背番号3から目が離せません!